CD Review / Kyosuke Himuro / FOLLOW THE WIND
『FOLLOW THE WIND』
もうずっとヒムロ氏から離れていて、何だかんだと舞い戻った時の、とにかく一番新しいアルバムにあたります。アルバム自体を購入したのも時期は遅くて、最初はとりあえずレンタルで様子見、というような状態だった。
ケースを開けた瞬間の、CDに印刷された目隠しヒムロ氏を見た瞬間、間違いなく春の方角へ向かって情けない声を上げた事は言うまでもない。まさか、ヒムロ氏自らが目隠ししているとは・・・。本当に期待を裏切らない、むしろ想像の上を行く人である。
とまあ、外見の事は置いておいていざ聴いてみると、最初の感覚としては「別なトコにいるなあ」というのが少なからずあった。良いとか悪いとか、そういう単純な判断を即座に出来るタイプじゃないので、とにかく最初の印象は「日本じゃない」という感覚だった。
それは良い意味も悪い意味も両方持った私の意見であって、良い意味で言うなら「今の日本の細切れ流行廃りに捕らわれないもの」で、悪い意味で言うなら「今の日本の流行廃りに乗っかれるもんではない」、というような感じを漠然と持った。歌詞もオール森ユキノジョウ氏で、そこから生まれる世界観もヒムロ氏を「今の日本」てやつから多少、遠ざけているような印象もあるわけで。それは「ヒムロキョウスケ」というジャンルの確かな確立であると共に、例えば「ヒムロって誰?」な若者やなんかに、「ね、スゴイでしょ? いいでしょ?」と言っても通用しないんだろうな、みたいな、とてもごく個人的な哀しさは少し漂うような、そんな感じ。でも、何度も聞き込んでいけばそのヒムロ氏ワールドは、自分には少なくとも慣れ親しんだものであると共に、ハマると痛いくらいガツンガツンないわゆるヒムロ氏ワールド・・・(笑)。
「好きだよ、悪いかよ?」なアルバムです。
そして、そこから何度も聞き込んだ今(充分とは言えないけれど)、改めて思う事は、このアルバムはヒムロ氏自身も自分の場所の確立を、ある程度狙ってきてるんじゃないかなーという事。それはもちろん「J-POP」とかいういい加減なくくりの中で、「今のヒムロ氏が音楽を発する場所」ていうかね。年齢の事でヒムロ氏がどこかで(ソースは忘れました)、「30代、40代のアーティストという位置から発せられるもの」、というような事について言ってたと思うんだけど、まさにそういう位置を感じたですね。
それこそBOΦWY時代の「やっちまえ!」とかとは違うし(あれは明かに下から上を見上げる図式の音楽であったと思う)、「好きなら、楽しかったらいいよね」なんてものとも違う。ずっと示唆的であるし、その枷を良くも悪くも感じる。そういうね、ある種説教臭さみたいなものが混じっていて、それを愛だ恋だの言葉遊びだのでごまかさないで、ヒムロ氏が変わらず持ってる歪んだいびつなレンズで見えた世界で(過分に森氏の脚色があるわけなんだけれども)、表現されてると思うんだよね。
ヒムロ氏レンズを通せば、説教臭さは基本的にほとんどなくなってしまう。それはBOΦWY時代から延々と続く彼の変われないスタンスで、決して「こうしろ」と他人に向かって言い切る事はしない。だから示唆的な事は気が付けば全て彼自身をも裁いて、彼の背中を押すための言葉へと変わってしまっている。(そして間接的にその言葉に私たちは背中を押される結果となる)彼の表現するものは基本的に、誰かや不特定多数へ向かって依存するタイプじゃない。良くも悪くも、ずっとストイックでメビウスの輪的なとこがある。だからこそ、軽い流行には乗れないし、ふわふわっと飛んでいたい人にはすごく重荷に思えるんだろうな、と。
でも、その(今の世間への)危機感への示唆っていうのは、すごく「ある」内容の歌が多いなあ、と思います。そういうの、個人的にめたくた好きです。そういう内容を歌う時のヒムロ氏視点ていうのが好きなのね。
後は、自分の中のヒムロ氏のパターンというのに立ち返ってくれた、そういう気持ちもあって、それも個人的な気持ちの安心感につながってます。
「そうそう、コレコレ!」
と言うような感覚。曲の並び順的なもんもそうだしね。それがヒムロ氏的に良いのか悪いのかはわかんないけど、少なくとも私にとっては帰って来てくれた感がある。「帰って来た」と表現すると誤解を招く怖れがあるかもしれないが、人生の旅路を永遠に戻れない、先へしか進めないものとして、後退などではない「帰って来た」である。
常に新しくなっている部分と、常に変わらない(変われない)部分が、融合しているような気がするんですよね。核心となる自分を否定したり、虚飾する事は決して悪くはないけれど(そこから生まれる違う何かだって間違いなくあるんだ)、むしろそこを取り込んだ方がより上に行く事だってあるし。
そんなワケで、しばらくヒムロ氏離れしていた私にとっては、妙にアバンギャルド気取ってたり、ムダに向こう見ず、鉄砲玉みたいなのになってたり、地球と仲良くなってたりしてなかったのでとてもヨカッタです。
むしろ、ヒムロ氏が変わってなかった事に、驚きと愛と安堵を感じました(笑)。
ラップってる時は最初、こそばゆかったですけどね!
『VIRUS』
映像化するなら、最初の「ホンキなのかい?」のくだりでは、ヒムロ氏のあの特徴的なお口のアップがモガモガしてそうです。やっぱり最初に取り上げるなら「ホンキなのかい?〜」の語りだろうな。いわゆるファーストインパクト。いかにもヒムロ氏らしい「やってやった(ニヤリ)」な部分。それを「YES」とするか「NO」とするかは人それぞれの価値観だろうけど、私的にはアリかな〜(笑)。後の「RAP ON TRAP」の語りよりは全然アリだと思います(いや、あっちが「ナシ」って言うんじゃないんだけど・・・汗)。
基本的に、ヒムロ氏のアルバムの1曲目っていうのは、アルバム自体の(そしてその瞬間のヒムロ氏の)方向性を示唆しているのが多い。ざっくり言うと、印象的なでっかいファーストインパクト持ってくる事が多い。だから彼曰くの「シングルは名刺がわり」のごとく、シングル作品を1曲目に持って来て、ガツンと行く事が彼の常套手段でもあった。
でも最近は少し趣向も変えられて、彼が提示するシングルという切り口が少し変わってきているので、今回もシングル曲であった「Claudia」は中盤の6曲目に収まっている。そしてこの「VIRUS」が1曲目に据えられている。
アルバム全体として感じられる、「世間(日本に限らず世界も含め)に対する危機感への示唆」、というようなものが、もっとも顕著に出てる曲でもあるかな、と思う。それは彼が音楽を発する上で、ある程度確立しようという位置でもあるというか、ただ音楽を音楽としてどうこうというのではなく、既存の持ち得る幻想の世界観の破壊と、日常に端を発するリアルな世界観の確立。その辺をなんとなく感じるような気がしたり、しなかったり。
まあ、ぶっちゃけ言うなら(これはごく個人的な意見ですが)、40過ぎたおじさんが、いつまでも寝ぼけた愛についてウダウダ、アイデンティティについてアレコレ語ってもね、やっぱ「はぁ?」ってトコはあると思うんです。40過ぎのおじさんが語っちゃいけないってんじゃなくて。単純に、10代の恋と20代の恋愛と30、40代を越えた愛って、同じワケないじゃないですか。その見方にしたって感じ方にしたって、表現にしたって。
もちろん愛はすばらしい、自己憐憫、自己満足、自己批判、他者否定、自虐的な妄想、なんだっていいんだけどさ、それぞれを表現するのに、タイミングってやつがあるとするなら、今の「ヒムロキョウスケ」には「そのもう一歩先」ってやつが、多分必要だったんだと思うんだよ。
その辺で、じゃあ自分はどの位置で世間なり世界なりを捉えて、どこの視野から見て、感じて、発するのかっていうね。そういう居場所の確立の一端というか、そういうのを思う。これで完成っていうのでも元々違うし、この場所はある過程の一瞬にすぎないのだろうけど、ある程度、対外的な「ヒムロキョウスケ」の居場所としては、これからもある程度は確保できる場所なんじゃないかな〜と個人的に思う。
そして森ユキノジョウ氏の歌詞の、そのボキャブラリーの多さには感服というか、これは多分、どの歌の詞を抜粋しても大概そうなんだけど、彼の言葉の手駒の多さには本当に頭が下がる。ただ、その手駒の多さが華美な装飾として煩く感じる時もある。
元々、ヒムロ氏はあまりおしゃべりな歌詞を書く方ではなかったし(彼はおしゃべりになるとロクな事を言い出さない気がしてハラハラする)、肝心な事になるとつい英語で音にしてしまう辺りのズラし方、わざとはぐらかす方法なんかは松井五郎がわりに得意としてた手法だ。それの良し悪しは別にして。
でも森氏はそういう歌詞の書き方はしないし、もっと言葉遊びを楽しむような書き方が特徴的だろう。その辺りの森氏独特の言葉でやりこめてしまう感覚は、知識階級ぽいというか、上手くマッチすれば言葉足らずなヒムロ氏に、良い意味での年の功的なクレバーさを付加できる。ただ、ヒムロ氏の良さというか魅力の1つに、その言葉足らずさゆえの幅広さがあった。解釈の幅を、言葉足らずさが二周りほど広げるというか。
この歌に関して言えば、確かにヒムロ氏の新しい世界観は築き上げられ、確かな場所としてスポットを作ることには成功していると思う。ただ、少し「しゃべりすぎ」な感がないとも言い難い。これはもう、個人的趣味の世界になるだろうから強くは言えないが、比喩した世界観の向こうのリアルが、ちょっと見えすぎる(汗)。
細かく言えば「砂漠の国じゃ〜」あたりのとことか、ちょっと直接すぎやしねーですかい、という気持ちかな。別にダメじゃないんだけど、何となく近すぎて冷めちゃう部分もあるんだな。まあ、あのテロの事は、ヒムロ氏的にも浮き彫りにしたくなるくらい、ガツンと衝撃だった事なんだと思うんだけど、(それでなくてもヒムロ氏は外界からの影響を受けやすいんだし・・・)、ごく個人的には、そういう事こそ別な形で昇華させて欲しかったな、という思いがあります。でもこの歌は、普通にかなり好きですね。
『Weekend Shuffle』
とりあえず多くの人の脳裏に、BOΦWYの「DOWN TOWN SHUFFLE」がよぎったであろう事は、言うまでもない事なのかもしれない。まあ、曲自体は全然違うんだけど、歌詞の「○○が××して〜」の羅列は同じだもんね、歌詞の形態として。そして「SHUFFLE」。
この場合の「Shuffle」は、多分リズム「タッタツー、タッタツー」(だったっけ・・・?)の、そういう「Shuffle」じゃなくて、もっと「混ぜる」という言葉本来の意味の方の「Shuffle」だろうな、と。歌詞にも「シャッフルに混ぜて」というのがあるし、サビ部分の歌詞を考慮に入れれば、間違いなく「混沌」としての「シャッフル」が思い浮かぶ。
私としては「誰々が何々して〜」のくだりより、サビ以降の部分が曲調も歌詞もすごい好きで、聴いていて、良い意味でとても頭にひっかかるというか、何度も反芻したくなるんですよね。
「欲しいのは何?」
という部分がすごい好きです。もう、ピンポイントで。
あえて、BOΦWYのヒムロ氏作詞である、「DOWN TOWN SHUFFLE」とを比較して見てみた場合、やはりそこには「深くなった」感がヒシヒシとある。BOΦWY時代の「SHUFFLE(混沌)」と言えば、その事象に対して「イジケル」「シラける」が最終的な着地地点だったりする。
それは混沌の中で、適当に笑って、騙して、旨くやって、なのにうまく笑えないのはなんでだろう、ジャニスもアニーもポールもジョニーも街には溢れるけれど、自分はその「誰でもない」位置にある、つまりそういうものだった。
それに対して今のヒムロ氏が歌う「SHUFFLE(混沌)」は、ジョニーも裏通りのギャングもビルもトミーも、その他のみんなも、どれも「自分と同じ」位置にあるという、その悲哀が感じられる。だからこそ、「信じても迷う街で」「泣きながら眠る前に」、「あどけないシャッフルに混ぜて」しまおうというか。
そこには、シラけたり、イジけたりというだけじゃ済ませられない、もっと自分の核心に迫る人生の悲哀みたいなものが含まれている。そして、その悲哀につまずきながらも、いつか心が浄化される事を願いながら時が過ぎるのを待つ。
核心を掴みながら、わざとそれをやり過ごす、それはある見方をすれば大人のズルさであって、優しさでもある。そんな、混沌とした世界観だと思うです。
「DOWN TOWN SHUFFLE」では、どちらかと言うと「信じられない事の悲哀」が強くて、でも、この「Weekend Shuffle」では「信じる事の悲哀」を感じたりします。
それにしても「欲しいのは何?」て、すごく自分にとってガツンガツンくるフレーズです。
『FOLLOW THE WIND』
アルバムタイトルでもあるこの曲。
「風についていく」、つまり「風まかせ」みたいな感じかな?
ほんと、ヒムロ氏のパターンでのこの1曲目からの曲順パターン、アタシはこのパターンでこられた時にマジで弱いんですよ。「MISSING PIECE」を彷彿とさせる並びなんだよなあ・・・。1曲目でガツンと行って、2曲目でちょっと違う場所へ引いて、3曲目でやっと本音を打ち明けるみたいなさあ・・・。んで4曲目で更に本音の本音っていうか。
いや、それは置いておいて。長く、私の携帯の着信音でもありました。それゆえ、この曲すごい好きですね(笑)。それゆえ、って事もないんですが、ほんと曲調がとても好き。煩くない感じっていうかね。
ソロ以降のヒムロ氏は、バラードの時の声の響かせ方っていうか、ビートでガツガツいかない時の声の魅力の見せ所みたいなの、すごく確信犯的にやってるよね? わざと声で後ろにひっぱり気味にして、テンポの調整を行うような。しかも最近は、そこに力の抜けた優しさっぽいものも混じるというか。昔ってどのバラードでも、リアルタイムにキリキリマイで歌ってた印象があって、その余裕の無さがちょっと重荷な部分も少なからずあった。全部が現在進行形だったのね。
でも、この歌なんかを聴くと、過去を清算してきたその先に居るヒムロ氏が思い浮かぶんだな。それはもう、すでに「MISSING PIECE」「I・DE・A」以降から、
すでにあった感覚だけど、改めて。落ち着いたって言うと、マイナスな印象に取られる場合もあるかもしれないけど、正直、いつまでも先頭切ってケンカするばかりが脳でもないだろ、みたいなところでね。
夕方の4時頃くらいの歌なんですよ、自分的には。「夕陽がまぶしすぎて〜」という歌詞のせいってワケじゃないんですけど。どっちかっていうと、夕暮れじゃなくてその手前という感じ。なんかマッタリと少しアンニュイにため息をつきつつ、悲しみでも喜びでもない感情をただくゆらせる、そういう雰囲気が好きだな。
歌詞で言うと、正直この歌詞はそんなに好きでもキライでもない。これだけ歌詞重視宣言してるアタシですけど、この歌詞はあんまし可もなく不可もなくって感じ。内容はアレですよ、もうヒムロ氏の黄金パターン。
「誰に恋をしても 面影探してしまう
孤独を忘れたのは おまえとが最後だったよ」
ヒムロ氏お得意の「オンリーワン発言」&「あの時に戻れるなら離さない」そして「なくしてから気づくなんて」ですかね(汗)。ヒムロ氏が自分で歌詞書いても松井五郎氏が書いても、森氏が書いても、全部同じ内容なんだから、よっぽどヒムロ氏的な愛の典型的パターンなんでしょうね。古くは「PUSSY CAT」(BOΦWY未発表曲)から脈々と続くこのパターン。いくら手を変え品を変え、同じ事を言うのに年齢を重ねた深みが加わっても、やっぱ同じなんだよーー!!
個人的な事で言えば、ヒムロ氏はどっちかというと「RUNNAWAY TRAIN」な印象があって、この歌詞にあるような「長距離バス」よりかは「TRAIN」な時代の人、
という違和感があるくらいでしょうか。おとなしくバス停でバスを待つ(手には簡単な旅行カバン)ヒムロ氏を、想像してみると、どうも父の帰りを妹と待ってたらトトロ出現、なんてサツキちゃんくらいしか思い浮かばないのですが・・・(汗)。
バスに乗るヒムロ氏って、どうもイメージに薄いんですよねえ〜。バスってアレね、一般の人が乗るバスですよ、お金払うやつ。ライブの専用ツアーバスみたいなんじゃないやつよ。
あんまりにいつもの黄金パターンなもんだから、こういう時は少しヨコシマなデイドリーム(妄想)で憂さ晴らし。
「コレってBOΦWY時代の事歌ってんでしょ? ホテさんの事なんでしょ?」
なーんてネ(憂さ晴らし終了!)。
『MONOCHROME RAINBOW』
昔だったら、完全に「キライーもう帰るー(泣)」な曲だろうなあ。でも今は「サビ好きなのよ、サビが」みたいなね。この曲を「けっこう好き」とか言える自分は、やっぱりちょっと成長したと思うのよ(笑)。後の「SACRIFICE」でも(↑)と同じ事言うつもりだけど!
Aメロ部分とBメロ部分は、ちょっと私としてはヒムロ氏の曲の中でも、苦手なラインのメロディなんです。「ウダウダやってんじゃねーや!」みたいなね、正直。でもサビがいいんだよう、サビが。サビのメロディがなんせ自分好み。
歌い方とかも含めてもう、好きなんだから放っておいてちょうだい、みたいな。まあ、そんな風に言ってても始まりませんので、自分なりにこの歌を考察してみたいと思います。
曲調については、まあ上で述べた「Aメロ、Bメロはイマイチ。でもサビがすごい好き」というのに落ち着くわけです。そして、更に私がこの歌を「イイ!」と思う要素としましては、「MONOCHROME RAINBOW」つまり、「単色の虹」という表現というか、この対比的なもんがすごい活きてると思います。
イメージとして、モノクローム、つまり単色の世界。だけど使われている単語なんかはもっと色彩を持ってるんですよね、レインボウ(虹)を含め、ルージュとか血であるとか、煌めきであるとか。そういう視覚的色彩だけじゃなくて、匂いとか、ぬくもり(指先とか抱いていたいとか)などの五感に訴えるような、そういう言葉がむしろ選ばれていると思うんです。
でも、それらを全て「モノクローム(単色)」にしてしまう。それって何だろうって言うと、
「Forbidden sweet pain Forbidden my love」
である所の「禁じられた甘い苦痛、禁じられた愛」に通じるというか、つまり「甘い苦痛」や「愛」というような五感に帰するものを、モノクローム(つまり単色の世界)に閉じこめる事で、それらを「禁じる(Forbidden)」というような世界観なんだと思うのです。
そして、じゃあすごく禁欲的な、完全なモノクロームに支配された世界を歌っているのかと言うと、やっぱりそれも違うんですよね。
「パンドラの箱に 残った希望を 今解き放つように・・・」
という部分が挿入されているように、この曲にはモノクロームな世界の中にあって、それでも煌めきであったり光や色彩を放つ力を持った何か、色だけではなくて匂いやぬくもりといった要素の力強さ、そういうのを逆説的に表現してるんじゃないのかなあ?
それでいて、完全に色彩を取り戻した世界って、もっとベッタリしていて、下品であったり、すごく卑俗的であったり、そういう部分も孕むというかさ。その辺の一瞬の煌めきみたいなのってあると思うんですよ、例えばオセロゲームで白と黒を反転させる瞬間の、ゾクゾク感とか(解りづらいですね。汗)、そういう裏返る瞬間みたいなね。そういう色気であったり、ギリギリの緊張感みたいなものが、この歌の世界観にはあるんじゃないかなー、なんて。
どっちがいいのかなんてわかんないんだよね。モノクロームの世界がいいのか、カラフルな世界が正しいのか。どっちも本当で両方を行ったり来たりの裏返したり裏返されたり。その瞬間の、感じ取れそうでまだ少し手が届かない、まぶしいのに光りに色がないみたいな。
そういう危うさだとか色気だとか、艶っぽさがあると思います。こういう世界観は大好きです。
『LOVE SHAKER』
ライブでは盛り上がりそうな感じ?
またヒムロ氏が吠えてるとか言っちゃう?
まあ、そういう事を小声で言いながら(笑)。関係ない事なんですけど、この前の4曲までの流れは「MISSING PIECE」に近しいと思うんですよ。んでじゃあこの5曲目からは、というと、「MISSING PIECE」でロウに入った部分がハイに入ったというか、ある意味でシメントリー的要素みたいなね、そういう感じがする。
だから、要は真反対なんだけど真逆ゆえに同じみたいな、そういう曲順に対する思いがあるんだな、実は。まあ、どうでもいい事で、私が勝手に思ってるだけなんだけど。私は「MISSING PIECE」が好きなんでつい、その辺の共通を見つけると、それだけでこのアルバムにムダに胸躍る部分もなきにしもあらず(可哀相なので放っておいてやってくださいね・・・)。
んで、この「ハイ」な曲ね。単純に「ハイ」と言って、じゃあ「ロウ」とどう違うのかって言うと、「ロウ」っていうのはこの場合、自分の内へ回帰する系で、「ハイ」っていうのはもっとエンタメ系。この歌にしても、後で英語部分についても語りたいと思うけど、イメージとしてエンターテイメントショウの司会みたいなノリの歌だよね。それも、明るく楽しくファミリーで見れるようなショウじゃないの。もっとアイロニカルで、演じてる方は命がけみたいな、それこそ「SMショウ」的なもんを想像しても遠くない気がする(笑)。
本当はすごく薄暗い事で、裏で秘密裏に行うような事を、わざと明るく無味乾燥ささえ装ったエンターテイメントにしてしまう、そういう裏腹な暗さと明るさを、同時に振り切るような歌かな、と。んで「LOVE SHAKER」と(笑)。
英語部分(むかかさん訳です、適当です)、
「ハ、ハ! 来たまえ 愛しい仲間たちよ!
パーティーを始めようじゃないか!
ホラ、君のなりたいように、自分を壊せ!
君たちならば出来るはずだ、今すぐだよ!
愛は力だ! ところで君は元気がないじゃないか!
愛は力だよ! 余計なものは振り払ってしまえ!」
こんな感じかな? 雰囲気から察するに。
この歌の持つ物語っていうのは、その視点を2つも3つも持っていると思うんですね。それは例えばこのショウを盛り上げる司会者、ステージに上がる役者、それを見て笑う観客、そいういった立体的な世界観を、わざと細切れにして、不自然につなぎ合わせて物語を作るような、そいう印象。どこの視点にも光と影があって、裏の顔と表の顔をつきあわせて、全部をまぜこぜにして、そして「振り払え」という、そういう感じかな、と私は解釈していたりします。
ガン、ガン、と押し寄せてこっちの考える隙を奪って入り込んで、そういうノリだと思うんですよね。だから聴く時のモチベーションによっては煩いのですっ飛ばします(笑)。でも、この煩さ(ノイジーなぐるぐる感)にハマっちゃうと、けっこうそれはそれでドラッグ的に気持ちよかったりね。そういう歌かな、と思います。
『Claudia』
言わずと知れたこのアルバムからのシングルカット曲であり、某若手バンドと競作(共作?)した曲ですね。ヒムロ氏、というよりヒムロック王道ビート系ソングって感じ。キライじゃないし、むしろ好きだけど、それ以上も以下もあんまりどうこうってない曲だったりします。聴いていて気持ち良い曲だけどね。うん、ホント好きなのよ。
だってシングルの時点で、ある意味、アタシがヒムロ氏に立ち戻ったキッカケは、まぎれもないこの曲だもん。「永遠」とか「ダイアモンド・ダスト」とか、それまで正直、食傷気味でさ、シングルっつって、どうもイマイチだったんだよね、気持ち的にさ。でもこの曲は「うん、ヒムロ氏だ」みたいな。もしかしたら例えば受け手がそう感じる事なんかが、ヒムロ氏的には「どうなの?」とか、そういうのは感じるんだけど、私としては安堵ではあったんだよね。
歌詞は・・・正直どうでもいいね(笑)。だって何気に大した事言ってないし、世界観にしたって、大したもんじゃない気がする。この歌ももちろん森氏なんだけど、むしろ松井五郎氏的な言葉の処理を多少感じる。そこもまた、変に「懐かしい」とか思っちゃう所以なのかもしれないけど。
あと、これも自分の趣味なんだけど、「冷えたペットボトル」ってやつ、ココはあんまり好きじゃない。そういう時代感反映するような歌詞は、風化しちゃうんだって。固有名詞ってけっこう後になって引きずるんだよな〜って感じです。まあ、ペットボトルてギリギリの線だと思うんだけどさ。でもやっぱり、ちょっとひっかかる。
しかも、「冷えたペットボトル 頬に当てて 涙を隠すこと 気付いていた」てさ、「冷たいビールの缶を 頬にあてたままで 眠ってた」と、あんま変わらないなあ〜、みたいな(笑)。
内容的にも、うだつの上がらないラブソングなトコは、「Memories of Blue」と似てるよね。すごい良い曲なのに、なんか意味ない、みたいなさ。まあ、そういう穴みたいな曲があるっていうのも、安心できていいんじゃないでしょーか?
私個人としては、「Claudia(がうっ)」て入る効果音が気になります。
ドラクエで、こん棒で攻撃した時みたいな音。
「ヒムロの攻撃!(がうっ)スライムベスは4のダメージ!」
みたいな感じがするな。
勇者ヒムロの行く末はもちろん、フェロモンマスターに決まってるけどね!
『FOOL MEN'S PARADE』
タイトルは「愚者たちの行進」だそうです。
すごく細かい個人的な話をすれば、この歌の持つ物語性はすごく好きなんです、ものすごく。でも、この物語を語る言葉はあんまり好きじゃないんだな。出だしの「ジャンクな〜不味いと」とかも、その言葉を映像化して頭の中で捉えたら、すごい好きなんですよね。カッコいいと思うし、「朝のカラス」なんてもう、モロにレイヴァンですよね脳内じゃ(笑)。
サビ部分にしても悪くないんだけど、どうもしっくり来ないんですよね、歌と言葉が。しっくり来ないっていうか、しっくり来てるんだけど、ビッミョーに違うんだよ、なんでだろう、不思議なんだけれども。
曲と、この歌が表現しようとしてる世界観と物語性は、すごくマッチしてると思うんです、エピソード的な要素も。でも、なんか言葉が・・・ピースがちょっとずつズレたみたいな、そういう違和感を感じるなあ・・・。ズレたまま、きっちりとはまっちゃった感じ。そんな事をブツクサ思ってんのは私くらいなんだろうか? うーん・・・。
ただ物語的なところと、曲調ってのはほんとマッチしてると思います。乾燥した砂の王国ぽい、童話とかの世界観を思う。今までで、これに近い曲と言えば「NAKED KING ON THE BLIND HORSE」かな、なんて風に思います。まあ、ここでも「MISSING PIECE」からのチョイスなワケなんですけど。
同じ方向性を持った「アイロニーソング」だとは思うんです。ただ「NAKED 〜」より、よっぽど世界観の確立はしてますけどね。森氏の巧さだろうな〜と思うんだけど、これに関して言えば、個人的に私はむしろ「NAKED 〜」の方が好きだな。
そして、がんばって考えた結果なんだけど、なんとなく私は、この曲の「傍観者」な視線が、私の持つヒムロ氏のイメージと合致しないのかなあ、と。そんな風に思いました。この歌は部屋の中から窓の外を指さして、「ほら、愚者たちの行進を見てごらん」というような感じで、どこか手放しで開け放してしまったような印象がある。もちろん「それでも愛だけは知った」とか、物語の方へ入り込む要素ってのはあるんだけど、それはどっちかというと森氏の巧さからくる、三人称的処理みたいなものに捉えてしまいがちで、だからそこにヒムロ氏は絡んでないように思えるんだよね(これを物語でヒムロ氏をストーリーテラーと考えた場合)。
つまり、この歌詞部分から察して、「それでも愛だけは知った」部分で、「愛を知った=ヒムロ氏が」という図式として受け取れない。愛を知ったのは第三の登場人物であって、それは朝のカラスのような、語り手であるヒムロ氏とは別な存在。
私が好きなヒムロ氏の世界っていうのは、例えば「NAKED 〜」のような歌があった時に、その「裸の王様」を皮肉りながら、だけど紙一重で自分もその「裸の王様」なんだという、そういう多面性だったりする。それはBOΦWY時代の「マリオネット」にしてもそうで、「あやつる糸を断ち切って 自分のために踊りな」と言って、それはむしろ不特定多数でも特定の誰かでもなく、むしろ自分自身にこそ言っているんじゃないかという交差する立体感。
そこをヒムロ氏独特の視点(ヒムロ氏フィルター)として、ごく個人的に勝手に好きな私としては、どうもこの「あくまで第三者であり、ストーリーテラー」として、街を闊歩する人たちを「愚者」と言うのがなんかイヤなんですよ。なんていうか、この「愚者」に救いがイマイチ感じられないんだもん。
最後の方で「愛すべき」って部分があるけど、なんだか後になって取って付けたみたいでさ。今更なあ〜というか。同じように「もう責めるなよ」とかも、変に偽善的な匂いがしちゃうんだもの。歌自体がキライなワケじゃないし、世界観や物語性も好きなんです。だけど、どうもこの歌は自分の根底の部分でしっくりこない。
『SACRIFICE』
このアルバムの中で、私個人では一番の盛り上がりどころです。この曲、めたくた好きだ。そして前フリしておいた通り、昔だったら「ちょっと苦手・・・」な曲かもです。でも今はこの曲を「大好きなの!」とか言える自分は、やっぱりちょっと成長したんだと思う(笑)。
しつこいかもしれませんが、もう先に言っておきます。個人的に「ゴールポストに刺さった赤い月」の部分、この「ゴールポスト」てのが好きじゃありません。想像してヒムロ氏がフェンスに身を委ねて、サッカーグランド見ててもいいんですよ、別にね? だけど、どう考えても自分の中で、サッカーに興味を示すヒムロ氏が想像付かないんだ・・・(涙)。ただゴールポスト見てるだけだ、むしろ刺さった月を見てるんだ、みたいな解釈は、そりゃーアリだと思うんです。ええ、それがあり得ないなんて喚く私の方が間違ってますよ。
でも、どうしてもサッカーのゴールポストとヒムロ氏が、結びつかないんですよ・・・残念な事に。ほんと、ココだけは譲れません、私の中ではあり得ません(泣)。
とまあ、その部分は置いておいて(汗)、この曲はほんと好きでね、どうしようもない。歌詞との兼ね合いも、その「ゴールポストに〜」部分以外は、もうかなり好きなんですよ、ほんと単語の一語一語が好き。
闇の中で光を探す歌ですよね。情熱としては赤い炎じゃなくて、もっと青い炎という感じ。ただ熱い、メラメラ、なんて単純なものじゃない。ずっと静かで細く、でもその中心温度の熱さはすごく高くて揺るぎない。決して、希望に溢れた曲なんかじゃないんですよ、むしろずっとベクトルとしてはマイナスの方向を向いている。でも間違いなく前へ進もうとしていて、それはもう、CDに印刷された目隠しヒムロ氏ですよ。
目隠しされて、足枷をはめられて、手錠をかけられ、だけど光を探す、求める、歩き出すんだ、というような。それでいて「飛べない自分を責める」とか「哀しき道化のように」なんて、すごく自虐的な部分も持ち合わせている。これってもう、矛盾だとか何だとかじゃなくて、迷って信じて、真摯に生きるってつまりそういう事じゃないの、というようなそんなリアルな感じを思うわけで。
「翼は折れても歩けるなら 道はあるはず」
という部分にしても、まあ天使とか悪魔みたいなものを安易に想像するわけですが、マトモに考えて鳥だったら翼が折れたらもう後は死の方が近いわけで、それでも傷ついた体を引きずりながらも前へと進む。結局はキレイな美しいままの姿でいつまでもいられなくて(本当はいつまでもキレイなままで居たいのだけれど・・・)、傷つく事でしか前へ進めない悲しみとか、切なさとか、痛みとか。本当は避けて通りたいけれど、日常の裏に潜む内的精神性って、つまりはそういうものと引き換えに過ぎていくんじゃないのか、って。
英語部分を訳すなら(もちろんむかかさん訳で適当ですよ)、
「何も持たない上辺だけでは、誰しも満足はできない」
「誰もが孤独ないけにえ
命は転がるダイスのように、
正義は何も作りだしはしない」
というような感じで、ここだけ取り上げるとやっぱりマイナス思考的な、正義を掲げる事に何の意味もないだろう、みたいなね、結局は誰もが孤独なんだよ、とか、そういうものを感じる。でも、違うんだと思うんですよ、「だからこそ」っていうか。だからこそ、負った傷も「癒えぬまま」で、フラつきながら、迷いながら、傷ついて孤独感に苛まれて、憂鬱を手なずけては振り払って、「闇をまとった光を暴」いていく。
この「闇を纏った光」というのが、私はすごい表現として好きなんですよ。闇というのは本来、光とは対極の位置にあるものというイメージがあって、例えばそれこそ天使と悪魔的な相関図に置き換えて考える事が多々ある。だけどここで「消えちまえ」「ぶち壊せ」と言われている闇って、むしろ光と表裏一体となった闇なんですよね。
ホラ、日本神話でアマテラスオオカミ(だっけ?)が、岩陰にひっこんでしまって、だから光が射さなくなる、みたいな。光と闇は同じもので、お互いの関係性の中で、光と闇は存在しているというような、そういう解釈。
この歌の主観の人物っていうのは、だから決して強い人じゃない。強くない、と言うと違うんだけど、その強さは絶対的なものじゃない。もっと弱さを過分に含んでいるし、いつ誘惑に負けるともしれない。だけど見えない光を探し、信じて、いろんなものを犠牲にしながら、そうやって傷ついて前へ前へと進んでいく。
そういう弱さと裏腹の強さを感じるこの歌が、私は本当に好きです。自分の中のヒムロ氏のイメージって多分、こんな感じ。私ってバカみたいに乙女でしょう(笑)?
『RAP ON TRAP』
好きな曲ですよー、すごくとても。これぞ、ヒムロキョウスケの一端じゃないのよさ(ピノコ)! というような感じでね。歌全体で言ってる内容も割と好きというか、多分、いわゆる言葉あそびの中に真実を隠すような、そういう感じ。どっちかというと「狂気的な愛」に近い。
情熱ゆえの狂気は、古く「KISS ME」がストーカーソングに認定された頃から、もうヒムロ氏の一種のスタンスですよね(そうなの?)。内に秘めた狂気を孕んだ愛を(それこそ一歩間違うと犯罪スレスレな愛っていうかさ)、言葉(RAP)って罠(TRAP)を散りばめて隠して、時々冗談まがいに覗かす言葉こそ真実、みたいなねえ。
いろんな言葉の中に本心である過激な言葉を混ぜて、感覚をマヒさせて、その内にスルリと入り込むような、そういう駆け引きの緊張感があるんだと思うんだな。
それこそ、これを10代とか20代で歌ってもイマイチだと思うの。別にいいんだけど、歌ってもホントいいんだろうけど。欲望がすごく近い(気がする)し、爆発するまでも早いだろうし、なんか単純に罠も浅そうじゃない(笑)。そういうタチの悪さがこの歌にとってはスパイス的な要素なんじゃないかな、って思う。
それで「語り」部分を言えば、こそばゆいですね(笑)。「アリ」なのか「ナシ」なのかと問われると答えに詰まるんだけど、まあ、こういう曲があってもいいんじゃない、くらいで。あんまり「ガツガツこれからも語るぜい!」とか言われたらちょっとアレだけど(汗)、別にそういうワケでもないみたいだし、まあいいんじゃない、みたいな。
ちょっとおすまし系のあの語りって、なんか声とかも作ってて、ちょっと若くて(なんとなく)、やっぱしこそばゆいんだけどね。どっちかって言うと「甘えんボイス」系なんだってば(汗)。
ラップぽいとこは(あれがラップなのかとかはわかんないんだけど)、ちょっぴり苦しそうな感じになってくのとか好きだわ。自分で首絞めてるみたいで。
ごく個人的な感触を言えば、1曲目の「VIRUS」が帰結する曲という印象。だからと言って、この曲がある種の「解答」を持った曲かと言えば、それも全く違って、もっと「VIRUS」とは表と裏の関係みたいなものだと思う。それは別に「語り」とか「ラップ」とか、そういう事じゃなくてね。
1曲目の「VIRUS」とは表と裏みたいな関係って言ったんだけど、それはつまり「VIRUS」で表現されているのは表の顔っていうか、お昼間の顔みたいなもんだと思うんですよ。個人的には昼間っていうより朝なんだけども。朝に起きてテレビをオンにして新聞読みながらコーヒー飲んで、頭の中のエンジンをドルドルさせて、これから世界(世間)を相手にケンカしに行くって言えば大げさだけど、1日で例えるなら「VIRUS」は朝に起きて家を出ていく曲。でもそこには、昨夜の記憶が脳裏にまだこびりついていて、混沌と覚醒を小さく繰り返しながら、体の奥で眠っている「VIRUS」を抱え込んだ状態。
そしてこの「RAP ON TRAP」では、夜になって体の奥で眠っていた「VIRUS」が目を覚まして体に充満して、自らこそが本当の自分だと理性って感覚をわざとマヒさせると、ニヤリと汚く笑って、言葉(RAP)って罠(TRAP)をはりめぐらせ、ふしだらで卑猥な欲望に溺れていく。そういうような表と裏を感じるのであります。
そして、語り部分の「愛している」はむしろ罠(TRAP)で、真実であるからこその罠は、ひどくタチが悪い。真実と虚偽が交差して、頭をフルで回転させなければ、巧妙に仕掛けられた罠からは脱出できない。多分、この罠を仕掛けた本人すら、もしかすると真実を見失っているかもしれないから。
というような、そういう危うさ、危機感、これはずっと人間の持つ本能的な欲望への危機感かなーなんて。それが「VIRUS」ではもっと大衆的な危機感だったんだと思うんだけど。その両方を表と裏で、私はごく個人的にこの2曲から感じるワケです。まあ、深読みってやつなんでしょうけど(笑)。しかし、ものすごい「一人SMっぽい」歌詞だわな〜と(汗)。
『ARROWS』
とうとうラストのこの曲。もうとにかく過去の今までのヒムロ氏が、今もやっぱりヒムロ氏であると痛いくらい痛感させられる曲、かな?
しつこく「MISSING PIECE」との対比を続けるならばやはりここでも「MISSING PIECE」でラストを「ハイ」に持っていたのと反対に、「ロウ」でラストという感じです。
今さらなんですが、やっぱりこのアルバム全体を通して、ヒムロ氏は新しい居場所的なものを確立というか、それは新しい場所というよりも、自分の立つ場所っていうかね、そういうのを打ち出したような感じがあるわけです、私的に。それは、世間一般でどうこうじゃなく、私が感じるところでは、っていういい加減なやつでね。
それで結果どういうものになったんだって時に、なんて言えばいいのか上手く伝えられないかもしれないんだけど、それは新しい場所でありながら、そこに立つヒムロ氏はやっぱりヒムロ氏なんだよなーと。
新しい場所っていうのも、自分としては言葉としてしっくりこないのだけど、
まあ、とにかくこのアルバムで、彼が立ち止まって歌おうと思った場所っていうか、そういう場所ですね(んなの知らないやい!)。このアルバムでは、いろいろなヒムロ氏の世界観や居場所の確立っていうのが、すごく1曲1曲にあると思うんですよ。
「VIRUS」とかの少しインテリ層的な視点にしてもそうだし、
「Weekend Shuffle」で見せた悲哀ってのもそうだろうし、
「FOLLOW THE WIND」での郷愁を漂わせた優しさとか、
「MONOCHROME RAINBOW」の抑圧と解放であったり、
「LOVE SHAKER」のエンターテイメントのアンバランスさとか、
「FOOLMEN'S PARADE」でのストーリーテラーたる役どころとか、
「SACRIFICE」のような内的精神性の浄化とか、
「RAP ON TRAP」みたいな狂気な愛の表現みたいなのとか。
そしてこの「ARROWS」では、一番奥の柔らかい部分、か弱い、震えたままの心のトコですよね。ヒムロ氏曰くの「裸のオレ」というやつですよ。歌詞の内容としては、「魂を抱いてくれ」に近いんじゃないかな、と思います。
似ているけれど「臆病なオレを見つめなよANGEL」とは違うんだよね。「ANGEL」の歌詞には、もっと捨て鉢的なところがあって、ただ自分をさらけだしただけで、勝負はこれからって感じ。だからその先っていうと、まだ見えてない状態なんですよね。まあ、言ってる事自体は同じようなもんなんだろうけど。
それが「魂を抱いてくれ」だと、そういう勝負をいくつも繰り返して、勝ったり負けたりを越えて、その合間での「魂を抱いてくれ」なのかなーと思うわけですよ。だから「ANGEL」は言い変えれば「これから戦いに行く曲」であって、その先には「勝ち」とか「負け」が、少なからず転がっている未来がある。でも「魂を抱いてくれ」や、この「ARROWS」には、過去の「勝ち」や「負け」を背負った自分が、その未来にはまた予想だにしない勝負があるのかもしれないけれど、とにかく「今は眠らせて?」みたいな雰囲気があって。
それって古くはBOΦWYの「LONGER THAN FOREVER」の、「しゃべり過ぎたから少し眠るよ」に近いのかもしれない。「THANK YOU FOR WAITING BABY I LOVE YOU FOREVER」みたいな、そういう帰結地点にすごく近いような気がするんだな。
じゃあ「魂を抱いてくれ」とこの「ARROWS」の差って何かっていうと、「魂を抱いてくれ」は、もっと「LONGER THAN FOREVER」の感覚に近いと思うんですよ。とにかく眠らせて、背中を抱いて、っていうね。傷ついて疲れた自分を癒して、抱きしめてって歌ですよつまりは。
ヒムロ氏はそういう方向性の愛の表現が多いですよね。なんだかんだ言っても、相手との愛に合致する部分てほんと少ない。それも1つの価値観なのかもしれないんですけどね、愛っていつも一方通行みたいな解釈で。まあ、この「ARROWS」も解釈としてはほとんど同じなんですけど(汗)。結局は一方通行なんですけど、今まではその一方通行さも、「して欲しい」と「してあげたい」が、別な歌だったんですよ、ヒムロ氏の場合。それがこの曲では同時なんですよね。だからどうって事はないんですけど(別にだから「スゴイ」って事もないですもんね)、相手との関係性の中で、それを同じトコに持っていくっていうのは、今までにほとんどなかった(と思う)事だから。
だいたいにおいて、ヒムロ氏が「〜してあげたい」て言うのだってけっこう珍しいんだから! 勝手に愛を叫んだり、実は情熱的に求めてたりとかは多いんだけど。パッと思い浮かばないしね「ONLY YOU」 くらいしか(あるかどうかも、調べてないわけですけど)!
「守ってあげたい」て、この曲でも「夢とおまえを守るためなら」だしさ。基本的に「守ってやる」という意識はすごく強いのね。その辺はまさにヒムロ氏っぽい男っぽさだわなあ、と思う。男が戦って守って、女が癒す、といった、いわゆるジェンダーの典型的相関図みたいなもんですね。こういうヒムロ氏の男っぽさって、もうほんとすっごい昔からっていうか、「すべてはケジメをつけてから LIVE」で、「前の方に女の子いるから、妊娠とかできなくなっちゃうから押さないで」って、んなMCしてた頃とちっとも変わってないわけですよ!!
しかも見逃せないのが、
「ハイウェイへ 駆け昇ればすべて 棄てて自由になれる
地図にない 街にたどり着いて 愛を温めあおう
このままじゃだめなんだ」
という部分。要は「現状から逃げ出さないと(飛び出す・抜け出す)ダメになってしまう」という、「RUNAWAY TRAIN」とか「CELLULOID DOLL」とか、古くは「ATOMIC CADELLAC」とか、
「”16”」とかで言ってた事と、同じ事なんだと思うんですね。それでBOΦWY未発表曲「ATOMIC CADELLAC」の、
「最終のこの汽車で 逃げるのさこの街を
欲しいのはひとりだけ お前しか見えねえさ」
と、まだ同じような事をつまりは言ってるわけで。ヒムロ氏の言う「逃げ出す」は、まあ言葉通りの後ろ向きな意味じゃない事は言わずもがなですが、変な言い方だけど、40過ぎてもまだ10代とか20代で持ってた、もっと先へ行くんだっていうのがあるってスゴイなあ、とも思う。
それはもちろん「逃げ出す(飛び出す・抜け出す)」と同じ意味でも、その抜け出したい事象っていうものの世界観とかレベルってのは、その昔とは多分、比べものにならないような違いがあると思うんですよ。
しかも、昔の「オマエだけ」っていうのと、この時点で「守りたいんだ」って言ってるヒムロ氏っていうのは、同じであって、別人であってしかるべきだと思いますしね。でも、別人であって、やっぱりその思考回路みたいなのは、まぎれもなく同じ「ヒムロキョウスケ」なんですよ。それを、もう痛いくらいに感じてしまう1曲・・・なんですよねえ。
ああ、この1曲のレビューに、何冊もの歌詞カードを用意しなくちゃならなくて大変でした・・。当初の予定ではこんなハズではなかったのに! とりあえず現時点で言える事は、ヒムロ氏はやっぱしヒムロ氏です・・・という事で大団円! ムダに長ぇよう!
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